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Matzにっき


2004年03月02日 [長年日記]

_ [OSS]Young Programmer, Stop Advocating Free Software!

村田さんからのタレコミによる。

「なんでもかんでもFree Softwareであるべきだ」という若いプログラマよ、 考え直せ。実社会に出てプログラミングで生活しようと思えば、 Free Softwareじゃ食べていけないぞ。フリーソフトウェアを推し進めるべきでない。

とかいうような内容のオープンレターがslashdotにポストされた。 年よりのたわごとと断言したいところだが、どうも このレターを書いた本人より私は年寄りらしい。どうしたものか。

まあ、「フリー(この場合は無償)」では食べていけないというのは、よくある指摘である。 実際、ありとあらゆるソフトウェア関連のプロダクトおよびサービスが代価なく配布されると、 産業として成立しないのは事実でもある。

しかし、ソフトウェアの性質である

  • コピーが安価
  • コピーによって劣化しない
  • コピーの配布が安価

によって、ソフトウェアのコモディティ化は避けることはできないだろう。 フリーソフトウェアでなくても、ソフトウェアそのものを販売するビジネスは そう遠くない将来に、ごく一部の例外を除いて成立しなくなると思う。 そうなったら、このレターを書いた人はソフトウェア産業の保護を訴えるのだろう。

もちろん、訴える権利はある。が、実際に保護されるだろうか。 むしろ、ラッダイト*1運動のようになってしまうのではないだろうか。産業革命に取り残される運命の人々が不安を感じて人たちが騒いだのはある意味当然だ。 しかし、その運動は産業革命そのものを止めることはできなかった。 100年以上たった今、産業革命は定着し、ラッダイト運動は存在しない。

ソフトウェアのコモディティ化はソフトウェア産業の構造変化だと思う。 「ソフトウェアの自由」提唱者はそれに便乗して、さらに先に行こうとしている。 プログラミングラッダイトはそれを止めることができるか。

本棚から古い『GNU Emacsマニュアル』取り出し、その中の『GNUマニフェスト』を読んでみると、 このオープンレターを書いた人物がまだまだ子供であった頃に、 彼のレターに対する答えがすでに与えられていることがわかる。

「プログラマは飢え死にしてしまわないだろうか」

誰も強制的にプログラマにさせられるということはないとお答えしておきましょう。 我々の大部分は道の上に立ってしかめ面をしてそのまま飢え死にせよといいわたされることもありません。 我々は何か他のことをするでしょう

しかしこれは質問者の暗黙の仮定を受け入れてしまっている点、誤った答えです。 つまりソフトウェアの所有権がなければ、プログラマは一銭たりとも稼げないという仮定です。 おそらくそれはオール・オア・ナッシングという仮定でしょう。

プログラマが飢え死にしない本当の理由は、プログラム作業に対してお金が支払われることが可能だからです。 ただし、今ほどは儲からないだけです。

コピーを制限することだけがソフトウェアにおけるビジネスの基礎ではありません。 それが最も多くのお金をもたらすので、最も共通した基礎になっているだけです。 もしも顧客の方からそれが禁止されたり、拒絶されたりした場合には、ソフトウェア・ビジネスは、 今のところほとんどなされていないような他の組織的な方法を基盤として変遷していくでしょう。 どんなビジネスでもそれを組織化するのにはいく通りもの方法があるものです。

おそらく新しい基盤のもとではプログラミングは現在と同じほどは儲からないでしょう。 しかしそれだからといって新しい変化に反対する理由にはなりません。 セールスマンがいまと同じだけの収入を今後常に保証してもらえないことが不公平だとはいえません。 プログラマも同様で、収入が減じてもそれはやはり不公平だとはいえないでしょう。 (実際には、プログラマはそれ以上の稼ぎがあるに違いありません。)

このマニフェストが出されたのはおそらく1987年ごろだと思うのだが、 そのころStallmanはこれからの社会のあり方について十分考察していたことがうかがえる。 さらにマニフェストの後半に登場するビジョンには感動さえ覚える。

長い目で見れば、プログラムを無料にすることは、欠乏の終わった世界への第一歩です。 そこでは生計を立てるためにあくせく働かなくてはならない人はいなくなります。 人々は(週10時間の化せられた仕事、たとえば法律の制定、家族のカウンセリング、ロボットの修理、 小惑星の探査といった作業をこなしたあとは)プログラミングのような面白い活動に自由に熱中することができます。プログラミングによって生計を立てることはもはや必要ではありません。

StallmanはSFじゃなく、本気でこういう世界が来ると考えているのだ。 もちろんこれはまだ実現していないが、この先人類が滅亡しなければ、 100年後にはこれに近い世界が来るかもしれない。

Stallmanは100年先を見ていた。 「無償じゃ生活できない、これが現実だ」と文句を言う人はどこまで先を見通しているのだろう。 Stallmanと比べてしまうとすごく近視眼的な気がする。

そういう観点では、CNETの「オープンソースの採用で共食い状態?--ソフトウェア企業のジレンマを探る」という記事で紹介された、 IBMソフトウェアの技術戦略ディレクターDoug Heintzman氏の言葉の方が現実を見ている(ような気がする)。

たしかにリスクはある。しかし率直にいって、上り調子のものをしゃかりきにつぶそうとするのはエネルギーの無駄だ。誰も市場には勝てない

最初に戻ろう。若きプログラマはフリーソフトウェアを推し進めるべきか。

推し進めるべきだ、と私は思う。なぜか。

もし、私の予想通り、フリーソフトウェアが未来であれば、それ以外の道は衰退の道だ。 抵抗するものはラッダイトだ。 今フリーソフトウェアを選ぶことは新しい世界で人よりも先んじることができる。

もし、私の予想が間違っていて、フリーソフトウェアが未来でなければ、 いつでもフリーでない世界に帰ることができる。 その時、フリーソフトウェアのソースコードとコミュニティから学んだ知識と経験は絶対に役に立つ。

たとえ私が間違っていても、未来がどうであっても、けっして損はない。

*1  ラッダイト運動とは、19世紀英国の産業革命の際の職工団員による機械破壊の暴動


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