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Matzにっき


2004-02-27 [長年日記]

_ [OSS]オープンソース二題

八田さんによる文章。私の書きなぐったものよりは25倍くらい良い。

こういう文章が登場するきっかけになったと思うと、ちょっと報われた気がする。

_ [OSS]Conformance to the OSD

一部の人が「OSIはOSDによる「オープンソース」の定義を放棄した」と豪語し、 ま2さんが翻訳してくださった 「Conformance to the OSD」だが、ま2さん版には肝心の部分の翻訳に不満がある。

OSDに準拠する

(このセクションはOSDの一部ではない)

我々は,ソフトウェアコミュニティの大多数が「オープンソース」という用語で指していた(そして今でも指している)ものは,OSD(Open Source Definition)でとらえていると考えている。しかし,この用語は広く使われるようになり,その正確な意味は失われてしまった。OSI公認マークは,そのライセンスのもとで配布されるソフトウェアがOSDに従っていることを,OSIが公認する方法である。一般的な単語としての「オープンソース」はそのような保証を与えることはできないが,我々としては今でも「オープンソース」という用語をOSD準拠の意味で使うことを推奨している。OSI公認マークに関する情報,またOSIがOSD準拠として承認したライセンスの一覧に関しては,OSDの公認マークのページを参照すること。

これだと強調した部分は「なくなっちゃった」という敗北宣言に聞こえる。実際には オリジナルでは「its meaning has lost some precision.」である。 ここはやはり八田版の訳を採用したい、

準拠について

(この節は「オープンソースの定義」の一部ではありません)

私たちはこの「オープンソースの定義」が、ソフトウェア界の人々の大多数が 「オープンソース」という語に元来込めていて、今も依然として込めている意味を捉えていると思っていますが、この語が広く使われるようになるにつれて、そ の意味するところがいくぶん正確さを失っている感は否めません。そこでOSIでは、ソフトウェアの頒布に適用されるライセンスがOSDに準拠していることをOSI認定マークで証明することにしています。私たちは 「オープンソース」という用語をOSDに準拠しているという意味で使うことを推奨していますが、 総称的な用語としての「オープンソース」には何の保障もありません。OSI認定マークについての情報、そして OSI が OSD に準拠していると認めたライセンスのリストについては認定マークのページをご覧下さい。

都合の良い訳を選んだといわれないためにも、原文は以下の通りである。

Conformance to the OSD

(This section is not part of the Open Source Definition.)

We think the Open Source Definition captures what the great majority of the software community originally meant, and still mean, by the term "Open Source". However, the term has become widely used and its meaning has lost some precision. The OSI Certified mark is OSI's way of certifying that the license under which the software is distributed conforms to the OSD; the generic term "Open Source" cannot provide that assurance, but we still encourage use of the term "Open Source" to mean conformance to the OSD. For information about the OSI Certified mark, and for a list of licenses that OSI has approved as conforming to the OSD, see the OSD Certification Mark page.

要約すると

  • オープンソースという言葉の意味はおおむね保存されている
  • が、あいまいに使われるケースも見受けられる
  • 依然として「オープンソース」という用語をOSDに準拠しているという意味で使うことを推奨している
  • しかし、OSIが「オープンソース」の意味を保証することなんかできない

ということだ。別に普通のことだ。OSDをあきらめたわけでもなんでもない。

OSIに限らず誰にだって 「オープンソース」という言葉が使われるあらゆる局面で「OSD準拠」を強制することなんかできない。 また、いくら歴史的に見て「オープンソース」という言葉と「OSD」がほぼ同時に登場したからと言っても、 個人個人のレベルでは当然「オープンソース」という言葉だけを最初に耳にした人が圧倒的に多いはずだ。 だから、「正確さを失う」のはある意味必然かもしれない。 実際、そこまで正確な定義を用いる必要がある場合というのは実は少ないだろう。

_ [OSS]OSDの不完全さ

今野さんが「OSDの欠点」について述べておられる。 八田さんの記事にもある通り、 OSDは完璧からはほど遠い。今野さんの指摘の通り

これからも「OSI の人々が OSD 準拠にはしたくないライセンス」が登場する度に OSD は改訂し続けられるのだろう。

が、ライセンスなどという社会生活に関るものを自然言語で記述するOSDが完璧でありえるはずはない。

元々、人々の頭の中には「オープンソースのようななにか」というものがあった。 それはFSFのいう「フリーソフトウェア」に近いものだったが、かならずしも同じではなかった。 人によっては自由へのこだわりが少ない人もあったから。

しかし、それは各自の頭の中の漠然としたイメージで名づけられておらず、 したがって共通に扱うこともできないものだった。 ま2さんがおっしゃった「SF論争」のように結論の出ない議論に陥ってしまう。

そこで合意できない「みんなの頭の中だけにあるなにか」を追求するのを止めて、 「なにか」の(比較的)客観的な近似として定義されたものがOSDだ。 あらゆる状況を予想できる知能が足りなかったので(そんな知能の持ち主はヒトにはいないと思うが)、 OSDを満たしつつ「なにか」を満たさないライセンスが次々と出てくるので OSDは改訂し続けられてきたのだ。

だから、不完全であるということは、事実だ。 また、(ある版の)OSDそのものは客観的だが、その定義の理由は非常に主観的だ。

私の考えは、にもかかわらずOSDのやり方には有用性があるので採用しよう、というものだ。

_ [OSS]オープンソースは「オープンソースみたいななにか」ではない

hsさんのツッコミ

あと、塩崎さんには、おそらく、UNIX等の世界で昔から連綿と流れてきた、もっとゆるやかな「ソースコード公開の文化・風潮」(もしくはおすそわけ文化?)に対しての愛着があるわけで、それを命名化できないものかなとも考えるんですね。

そういう命名ができれば、私を含め、「オープンソース」よりその名前を使いたいと思う人は多いと思います。

「オープンソース」が(無償で)「ソースをオープンにしているソフト」をあらわすジャンル、くらいのゆるやかな意味であれば、そのまま使いたいんですけどねぇ...

というのは、自然に聞こえる。ほんとはみんなそれがしたいんだよ。

しかし、やってみればその難しさは分かるだろう。 考えはじめると「無償でソースコードを開示していれば本当にそれだけで十分なのか」とか。 100人集まったらその100人にそれぞれの「おすそわけ文化」があって、 ひとつのムーブメントを作り出せるほどには一致できないと思う。 それぞれの漠然としたイメージを突き詰めるとどんどん実体がなくなって、 とらえどころのないものになってしまう。 それだけの求心力を産み出すためには

  • FSFがやったような「自由の旗印」としてのGPL。基準はGPLコンパチかどうか
  • OSIがやったような「客観的な基準」としてのOSD。基準はOSD準拠かどうか

のような「基準」が必要だ。これでみんなが共通の土台に立って話し合い、 運動することができる。

BSDのゆるやかな文化は素晴らしいと思うけど、 BSDの範囲を越えて、 BSDライセンスのソフトウェアの利用を促進したり、 BSDライセンスを選ぶソフトウェアを増やしたりするような、 ムーブメントにはならない(なってない)んじゃないだろうか。 そんなもの欲しくないのかもしれないけど。

でもって、私はムーブメントを必要としている。 それは私の生活のためだったりするんだけど。

私は「自由なソフトウェア」が好きだ。 プログラムを書くすべての時間を自由なソフトウェアのために使いたい。 世の中のソフトウェアがより多く自由なソフトウェアになって、 私と世界中のプログラマの「ソフトウェアの自由」が増せばよいと心から考えている。

しかし同時に、私の生活には費用がかかるし、 養うべき妻も子供もペットもいる。霞を喰っては生きていけないのだ。

となると、私にとっての最良の選択肢は「OSDとオープンソースを利用すること」だ。 オープンソースビジネスにかかわる人たちがオープンソースソフトウェアを利用しているように、 こちらも彼らを利用しかえそうというわけだ。 こうやって私はここ数年生活をしている。

「こういう下心は嫌い」という人はそりゃいるだろう。 「「オープンソース」という単語をよく使う人は胡散臭いから一緒にされたくない」 という気持ちも理解できないでもない。

嫌いなら嫌いで結構だが(万人に好かれるとは思ってないし)、 そういう人たちが「オープンソース」と距離を置くことができるためにも、 私は「オープンソースは客観的」であり、 「オープンソースソフトウェアは開発者の意図とは無関係」と言い続けるのだ。

ところで、私が例のスライドで「オープンソース」を連呼する最大の理由は やはり「オープンソース」についての講演を依頼されたから、である。 誰かが私に「フリーソフトウェアの光と影」とかいうテーマで講演を依頼したら、 ものすごい勢いで「フリーソフトウェア」について語ると思うんだけど、 いかがだろうか?

_ [OSS]「ソースをオープンにする」

くっぱさんのツッコミ

思うにOSD流の定義をオープンソースという言葉の定義として認めてしまうと、「ソースをオープンにする」などといった文脈において「オープン」という言葉の語義をOSD流に変更・拡張することを余儀なくされるわけで、

それは違います。

「オープンソース」という言葉の定義は 「ソースをオープンにする」という表現の意味を変えません。 変えるのは「オープンソース」という言葉の存在です。 定義はどうあれ、「オープンソース」という言葉はすでに存在しているので、 「ソースをオープンにする」という表現は

  • オープンソースを意識したものか
  • 意識しているとしたら、どの意味の「オープンソース」か
  • 意識してないとしたら単に開示するという意味か、それとも別の意味か

のいずれかわからないので、すでに非常にあいまいになってしまっています。 OSD流の定義を認めるとあいまいさがちょっとだけ減りますね(笑)。 焼け石に水でしょうか。

まあ、辞書を見てもひとつの単語に意味がいくつもあるのは普通なので、 人間はその程度のあいまいさには耐えられるのかもしれませんが、 いずれにしてもOSDは無実です。

本日のツッコミ(全8件) [ツッコミを入れる]
_ くっぱ (2004-02-28 07:37)

従来の慣習において「オープン」という言葉の語義には、「オープンな状態にあるものをアクセスした場合、得られたものをどのように扱うかはアクセスした人に任されている」という基本的な概念が根底に常に存在していたと思います。この基本概念こそが「オープン」という言葉のアイデンティティであり、扱う人が負うべき責任の範囲はオープンにした人の意図に対してではなく、社会規範に対してであったと思います。<br><br>これに対してOSDに記されている具体的な遵守義務は、万人がその定義を読まずとも自然に認識できる程度の社会規範にはまだなっていないように思えます。この状況のもとでOSD流の定義を「オープンソース」の定義としようという啓蒙運動は、「オープン」という言葉がもつ基本概念を根底からの変更するよう迫ることにつながると思います。OSD流のライセンスに「オープン」という言葉を与えられるほど社会通念はまだ成熟しておらず、また今後成熟するという保証もなく、今それを推し進めることには少々無理があるのではないでしょうか。

_ まつもと (2004-02-28 21:31)

突然表現が難解になってフォローするのが困難なのですが、<br>要約するとこんな感じでしょうか。<br><br>*OSD以外の「オープン」という言葉には共通の概念がある<br><br>*その共通の概念とは「オープンな状態にあるものをアクセスした場合、得られたものをどのように扱うかはアクセスした人に任されている」ということである<br><br>*OSDの「オープン」にはその「共通の概念」が含まれていない<br><br>読み違いであれば指摘してください。この要約が正しいとすると、個人的には同意できないのですが、勘違いをしたまま話をする進めるとろくなことはないので。

_ くっぱ (2004-02-29 01:13)

説明が下手で申し訳ないです。<br><br>従来の意味での「オープンにする」という言葉には、「オープンにされたものを自己責任のもとでどのように利用してもかまわない」というライセンス上の基本前提が根底にあると思います。つまり、オープンにする人の立場でいうと、利用して欲しくない方法による利用の抑止を、法律、裁判所の判断、社会規範や利用者の善意など社会的な縛りに委ねているようなライセンス形態といったらいいのでしょうか。この意味で、<br><br>> * OSDの「オープン」にはその「共通の概念」が含まれていない<br><br>はできれば、<br><br>* OSDの「オープン」はその「共通の概念」から逸脱している部分がある<br><br>としていただけるとありがたいです。

_ sayu (2004-02-29 10:19)

おはよう!!元気?さゆはげんきだよ^^これからもおしごと<br>がんばってね

_ KL (2004-02-29 14:34)

こんなに議論が進行しているとは思わなかったので(笑)超遅レスですみませんが、24日のコメントについてのまつもとさんのご質問(歴史修正主義 & open sourceという言葉から多くの意味を演繹 の意味)ですが、私はまずあのスライドを見て、それから塩崎さんの意見を見て、スライドを見た(オープンソースについて言葉だけ知っているがそれ以外は知らない)多くの人が何を考えるか、という視点で意見を述べたつもりです。そうすると、たとえば「伽藍とバザール」からオープンソース運動が始まったのであってそれ以前は影も形も無かったのであるという理解について、http://www.rubyist.net/~matz/slides/oss-ntt/mgp00015.htmlのスライドからは読み取れないでしょう。そうすると、あろうことか、「伽藍とバザール」「OSD」等々の評判と理解が聞こえるより先に「オープンソース」という一見簡単な言葉が光のように先に到達していた人々にとっては、24日のコメントに書いたように、まるでそのOSDなどを策定している人々の活動が先住民を侵略するかのような「open sourceという言葉に関しての歴史修正主義(revisionism)が起こっていると見えてしまう」という効果を生むのではないか、ということです。24日のまつもとさんの説明については、「オープンソースを政治的に利用する意図で実際利用しているのだから批判は当然でむしろ歓迎」というのは理解しますが、根本的なところで誤解が残ったまま議論が進んでしまうのは得策ではないでしょう。従って、OSD準拠ライセンスならOSD準拠ライセンスによって、いわばオープンソースを再定義しましょう、ということが、「演繹」ならぬボトムアップの解決だろう、ということです。<br><br>いわゆるオープンソース運動を主導してきた人々自身、「伽藍とバザール」という本から始まった曖昧なオープンソースの定義を、一度OSDという形を作って再定義し、刷新しているわけで、本人らないしそれについてよく知っている人々にはその歴史的経緯が理解できているのでその再定義こそが現バージョンのオープンソースなのだということについて誤解がない、ということなのでしょう。これは、「オリジナルの伽藍とバザールを読みそれについてのみ共感した人々」と、「OSDを策定した人々」の意見について、下位互換性が取られる保障はなく齟齬があり得ることを既に示唆しています。<br><br>がしかし、あくまで最初の論点に戻りますが、まつもとさんが使われたスライドでは、それらの点が意図的に簡略化のために捨象されており、それはオープンソースという言葉の訴求力をもってオープンソースを広めようという目的には非常に合致しています(毎回歴史の講義を聴きたがる人はまずいないでしょう)が、それについてツッコミが起こることは、「オープンソース」という一見無色透明な言葉故に不可避であろう、がしかしそれを避けつつオープンソースを標榜したいならば歴史講義を行うしかないしそれがオープンソースを広めるという政治的目的に究極的にはかなう場合も当然あるだろう、ということです。<br><br>ただ、24日の私のコメントでは、別の方法をお勧めしました。「何らかの具体的なライセンスを前面に掲げてオープンソースをその結果なり目的なり関係する思想なりとする方が自然で説得的」というのは、あえて歴史論争・もしくは「伽藍とバザール」のような作品に依拠した文学的議論のような曖昧になりがちなものを避け、具体的な法がまずありきということを述べて、それから個々の条項の効果を述べるなどして出発した方が、ずるいかもしれませんが自分の意に沿わない議論を最大限避けられるという点で、コスト的に安上がりだろうと思います。例えば、OSDに後から参画した人にとって、エリック・レイモンドの言ったことはおかしいしオープンソース運動のためにもならないと思っている人もいるかもしれませんが、そういう人は、以前の歴史は無かったことにしてただOSD、OSDと言えば済むわけで、主張の内容はともかくその姿勢を批判する人はいないと思います。OSDなりライセンスなりといったものは、そういう意味で、オープンソースというおおまかな言葉より安全なインターフェイスとして利用できるはずです。<br><br>(余談ですがコメントに沢山書くにはコメント欄の可視領域が狭いので個別の日が表示されているときは欄を広げて頂けると書きやすいと思います)

_ 匿名の臆病者 (2004-03-01 01:13)

「オープンソース」は「フリーソフトウェア」のマーケティング用語に過ぎないのです<br>OSDはDFSG(「Debianフリーソフトウェアガイドライン」)のコピペなのです<br><br>当然、「オープンソース」という言葉以前から「オープンソースのようなもの」をさす言葉も定義もあったし、それは(現在でも)「フリーソフトウェア」そのものに他なりません。<br>OSIの主張によれば。

_ 匿名の臆病者 (2004-03-01 01:36)

おまえらとは一緒にされたくねーんだよ<br>http://www1.neweb.ne.jp/wa/yamdas/column/technique/fsffj.html<br><br>「オープンソース」って言いやがったら小一時間説教するぞ<br>http://www1.neweb.ne.jp/wa/yamdas/column/technique/rmsj.html

_ kazamachi (2004-03-01 13:55)

オープンソースの定義はOSD準拠がもっともなのでしょう。たぶん(この点は議論するつもりがないです)。先にご紹介して頂いた「YAMDAS Project」の文書では、PDS等から発生したフリーソフトウェアの問題になっていると理解しましたが宜しいでしょうか。そして、個人的にはレッシグの唱えるコモンズの考え方に共感を感じています。<br>どのようなモノであれ、文化は先人の知恵の上に成り立つ。そして発展していく。飯を食うネタにする云々は置いておいて、ソフトウェアという文化を発展させていくためには、色々な考えがあっても良いんじゃないのというのが、私の考えです。

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